屋台紹介 田町下組

中田町(なかたまち)

白木彫刻白木造屋台

市指定有形文化財(工芸品)

屋台は白木造彫刻屋台で、その大部分は、天保年間(1830頃)に造られたものである。
この屋台は、日露戦争の不況時に日光の十字屋に売却され、一部彫刻が補われて商品として陳列され、後に宇都宮の宮島町に買い取られ、それを中田町が買戻すなどの経緯があった。
鬼板(おにいた)を飾るのは、籠彫(かごぼり)の玉をつかんだ巨大な「波竜」で、彫技の冴えを見せている。
真下にある懸魚(げぎょ)の「波竜」と、呼応する構図も見落とせない。
車隠しには「牡丹に唐獅子」で、ここにも精巧な籠彫の毬を添えてある。
後障子の「大鷲と猿」の構図も素晴らしい。(彫師不明)
県・市の助成にて、平成10年より、車輪と台輪の新調、屋根と柱の修理、彫刻の補修等が完成した。
(昭和61年市指定有形文化財)

下田町(しもたまち)

白木彫刻白木造屋台

市指定有形文化財(工芸品)

屋台の大きさは他町とほぼ同じであるが、箱棟までの高さ(429センチ)は最も高く、逆に台輪は最も低いので、彫刻の占める面積が広く、覆いかぶさるような鬼板(おにいた)の竜と相まって、豪壮雄大で重量感のある白木造彫刻屋台となっている。
鹿沼の屋台で唯一、方向転換の際にテコを利用する昔ながらの方法をとっている。
文久2年(1862)に製作された屋台で、右脇障子右下隅に「石塚吉明彫刻」という刻銘が残っている。
石塚吉明(2代目直吉・戸張町住)は、今宮神社本殿彫刻など各地に作品を残している。
彫刻は竜を主体とし、鬼板(おにいた)・懸魚(げぎょ)・高欄下(こうらんした)・車隠し等に見られ、白木地彫の持つ力強さを遺憾なく発揮した豪壮な彫刻屋台である。
「大鷲と竜馬」の脇障子、障子回りや欄間には「花鳥」の繊細な彫刻、蹴込みには籠彫(かごぼり)の毬など見どころが多い。
県・市の助成にて、彫刻・破風・高欄などの修理が完了した。
(昭和61年市指定有形文化財)

下横町(しもよこまち)

彩色彫刻黒漆塗屋台

市指定有形文化財(工芸品)

鹿沼宿は、内町通り(大通り)と田町通りの南北2本の道筋からなり、それぞれを結ぶ東西2本の横町が発達して、北が上横町、南が下横町となった。
下横町は宿内では一番小さい町でも、やはり屋台を有して今宮神社の付け祭に参加していた。
文化年間(1804頃)製作の屋台で、脇障子が黒漆塗で、額付明り障子窓などとともに文化・文政年間に見られる特徴が多い。
その脇障子には「芙蓉(蓮の花)に鳩」が彫られている。彫刻屋台では珍しい芙蓉が取り入れられている。
鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)の「芙蓉」が一体となって華麗さを誇り、「花鳥」を主体とした美しい屋台である。
安政3年(1856)に屋根を作りかえ、大正15年には台輪をとりかえるとともに、彫師芥川により、それに見合った高欄下(こうらんした)や車隠しが取り付けられ、また障子回りなども新しく作られた。
(昭和61年市指定有形文化財)

銀座一丁目(ぎんざいっちょうめ)

白木彫刻黒漆塗屋台

市指定有形文化財(工芸品)

上横町の東が分離して東横町となり、明治7年に東(あずま)に嘉字をあてて吾妻町と改め、さらに昭和29年に銀座一丁目と改称した。
当町の屋台は、黒漆塗屋台に白木彫刻という特異な様式で、最初塗屋台として造られ、後に禁令などから白木彫物がはめこまれたと考えられる。
屋台箱に文化11年(1814)の銘があり、現存する屋台としては、久保町のとともに最も古い屋台である。
天保3年(1832)に磯辺儀左衛門信秀4代目(凡龍斎)により高欄下(こうらんした)などの彫物が、そのほか安政2年(1855)などにも手を加えられている。彫物には明瞭に時代差が認められる。
鬼板(おにいた)の「子引き竜」、懸魚(げぎょ)の「玉取り竜」、高欄下と車隠しが一体となった竜など竜の彫物が多い。
「葡萄にリス」が前欄間から外欄間の一部にかけて彫られ、駆けているもの、食べているもの、子供を連れているものなど、いろいろなリスが配されている。
脇障子は「鷲に猿」が基本的な構図で、梅の木とバラの彫物が施されている。
県・市の助成にて、平成10年全面改修が完了した。
(昭和61年市指定有形文化財)

末広町(すえひろちょう)

白木彫刻白木造屋台

文化5年(1808)には、すでに宮街道として一町内を形成し、上田町とともに今宮神社の付け祭に参加している。
明治15年には、末広町と改称し、単独で今宮神社の付け祭に加わるようになった。
明治の末頃、上田町の屋台蔵に収蔵していた彫物類は、上田町のものとともに焼失してしまった。
屋台の本体(明治15年製作)は自町内にあったため、その後花屋台として活用し、大正・昭和と今宮神社の付け祭に参加してきた。
芸場は低く、台輪と同じ高さに床が張ってあり、高欄はついてはいたが、屋台のつくりは簡単であった。
その後、屋台は作りかえられ、昭和23年ごろ、旧今市市内の天棚彫物を手に入れ、屋台を飾ることができた。
鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)は「牡丹と獅子」で飾られ、鹿沼では数少ない柱飾りの彫物には「ぶどうとりす」、車隠しの波も見どころである。
県・市の助成を受け、平成15年度までに全面修理を進め、ほぼ完成した。

東末広町(ひがしすえひろちょう)

白木彫刻白木造屋台

東末広町は、明治・大正・昭和と東方に発展していった末広町のうち、その東部が昭和6年に分離独立した町内である。
戦後3回ほど、旧今市(文挟など)の屋台を借り、今宮神社の付け祭に参加していたが、車軸が故障したり、借り屋台では経費がかさむ事が問題となり、屋台を新造することになった。
昭和57年に製作され、大工は町内の元野勝三・五郎兄弟と日吉町の宇賀神久男である。
銀座一丁目屋台の構造・係数を参考として建造された。
平成10年には宇都宮市の辻幹雄により彫刻の製作が開始され、鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)が完成した。
波が特徴の彫刻で荒波から、竜が天に昇る様子を描いた彫刻である。
平成12年には旧今市市(現日光市)の菅沼保の製作で、牡丹の背景に「獅子の子」落としの図がある、脇障子と方立(ほうだて)が完成した。