屋台紹介 下組

仲町(なかまち)

白木彫刻白木造屋台

市指定有形文化財(工芸品)

寛政6年(1794)にそれまであった踊り屋台の再造というかたちで、彫刻屋台の祖形が仲町で完成した。
塗屋台彩色彫刻であった。この屋台のその後は不明であるが、天保7年(1836)に新しく白木造彫刻屋台が完成している。
白木彫といっても、朱・緑・青・黄・白・黒・金色を要所につかい、白木の素材をひきたたせ、見せる彫物として徹している。
手のこんだ鬼板(おにいた)の「竜」の尾や脚が、軒先をはって立体感をもたせ、懸魚(げぎょ)は「玉取り竜」を配し、車隠しには「飛竜・波竜・鯱」の彫刻が躍動感を見せている。
脇障子の「桜」や「牡丹と孔雀」、欄間の「花鳥」など彫りがとても細かく、繊細華麗な見事な彫刻である。
障子回りには日光東照宮で重要な場所に使われ、中国ではめでたい鳥とされている「山鵲(さんじゃく)」の彫物も施されている。
この屋台の彫師は、文政元年(1818)に再建された日光五重塔の彫物方棟梁・後藤周二正秀で、彫師集団磯辺の一族、下野彫師の第一人者である。安政5年(1858)磯辺儀兵衛が彫刻を追加している。県・市の助成にて、平成5年に一部修復がなされた。
(昭和57年市指定有形文化財)

麻苧町(あさうちょう)

白木彫刻白木造屋台

市指定有形文化財(工芸品)

新町(現麻苧町)は鹿沼宿の西の門戸として新しく発展した町で、明治7年に麻苧町と改称された。
新しい町であっても、文化15年(1818)には白木造彫刻屋台が完成し、すぐに塗屋台となった。
彫師は富田宿(現大平町)の第12代左甚五郎磯辺杢斉とその一門である。
この屋台は明治6年に白沢宿(現河内町白沢南)に売却されているが、高欄上(こうらんうえ)の金竜だけは現屋台に燦然と輝いている。
現屋台は安政4年(1857)に242両余をかけて完成した白木造彫刻屋台である。
彫師は同じころ銀座二丁目の屋台を手がけた後藤音次郎である。
鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)は「牡丹と唐獅子」、脇障子は「滝と牡丹に獅子」を配し、箱棟の丸彫の「子獅子」3匹は他に例を見ない。
彫物の主題が「獅子に牡丹」であり、「竜」を主題にした他の屋台に劣らず豪壮な作である。
平成14年には、文化庁の助成にて高欄の修復が完了した。
(昭和47年市指定有形文化財)

石橋町(いしばしちょう)

彩色彫刻黒漆塗屋台

市指定有形文化財(工芸品)

この屋台は文化9年(1812)頃の製作と考えられている。
当初の彫物は鬼板(おにいた)・懸魚(げぎょ)・琵琶板などにとどまり、その後安政(~1860)にかけて、脇障子・内欄間・高欄下(こうらんした)・車隠しなどの彫物が作られ、彩色彫刻塗屋台の体裁を整えていった。
安政期の彫師は菊彫の名手、市内上久我の神山政五郎(菊政)との伝承がある。
大正3年には、鬼板の下に「錦鶏鳥」をつけ加え、外欄間を彫物に換えた。
さらに大正15年にかけ、政五郎の弟子で今市瀬川の大出常吉親子により、琵琶板・後ろ障子・障子回りなどの新造と全体の補修・塗替えがされた。
外欄間・障子回りなどは「菊」の彫物で埋め尽くされ、鬼板の「錦鶏鳥」や全面に「小鳥」を配して、現在見られる鹿沼一華麗な屋台に仕上げられている。
県・市の助成にて平成4年に全面改修が完了し、平成8年には車輪が新調された。
(昭和61年市指定有形文化財)

下材木町(しもざいもくちょう)

彩色彫刻黒漆塗屋台

市指定有形文化財(工芸品)

この屋台の彫物は全面「竜」に統一され、しかも金竜であるがため、黒漆塗屋台に一段と光彩を放っている。
ただ竜の彫物のうち、懸魚(げぎょ)に隠れる琵琶板は緑主体の彩色であり、後ろ琵琶板は白竜である。
鬼板(おにいた)と懸魚の竜は上下相対し、脇障子の竜は金泥彩色に玉眼、鱗は青と緑に彩色され、黒雲・白浪の間に「上り竜・下り竜」を左右に彫り分け、その躍動するさまは当屋台の見どころになっている。
彫師は、脇障子や欄間彫物裏の銘によると、竜の彫物の第1人者である、富田宿(現大平町)の磯辺儀左衛門信秀4代目(凡龍斎)の作であり、天保3年(1832)の製作である。
同じ年に銀座一丁目の屋台も手がけている。
屋根は布張りで、屋根裏は朱塗である。
県・市の助成にて、平成5年に飾金具をとりつけ全面を塗り替えて一新した。
(昭和61年市指定有形文化財)

寺町(てらまち)

白木彫刻白木造屋台

亀の彫物で有名な通称「亀の子屋台」は、明治40年3月の大火で類焼してしまった。
その後大正6年には市内大芦から、大正10年には文挟(現今市市)から屋台を借りるなどして、今宮神社の付け祭に参加してきた。
昭和3年、御大典を記念して古い屋台を模した新しい屋台が造られた。大工棟梁は自町の宮大工半貫金太郎で、建造に加わったその子文太郎は、蓬莱町などの屋台も造ることになる。
花屋台として今宮神社の付け祭に参加していたが、戦後2回ほど助谷(現壬生町)の天棚彫物を借りて、彫刻屋台のかたちをとったこともあった。
その後、鹿沼在住の彫刻家東山玉秀こと山口忠志に彫物を依頼、昭和53年に現在の白木造彫刻屋台が出来上がった。
見どころは欄間の「竜」である。平成14年には、文化庁の助成にて高欄の修復が完了した。

蓬莱町(ほうらいちょう)

白木彫刻白木造屋台

今宮神社の付け祭への参加は、明治14年に蓬莱町の町名が出てくる。
明治期の簡単な屋台であったが、明治40年3月蓬莱町で大火があり、寺町の屋台とともに焼いてしまった。
その後、市内加園・大沢(現日光市)・文挟(現日光市)・徳次郎(現宇都宮市)から屋台を借りるなどして、今宮神社の付け祭に参加してきた。
現在の屋台は昭和30年製作の屋台で、大工棟梁は寺町の半貫文太郎で、同人が造った寺町の屋台を模している。
そして取り付けられた彫刻は、市内油田(あぶらでん)町の旧家に収蔵されていた彫物を譲り受けたもので、市内上久我の神山政五郎(菊政)の作とも言われている。
平成4年から、富山県井波町の彫刻師・日展会友の笹川無門(むもん)に彫刻を依頼し、高欄下(こうらんした)の竜、脇障子の鷹、欄間の十二支など見事な彫刻で屋台全体を飾り、平成11年完成した。
平成13年には、文化庁の助成にて車輌、屋根の修復が完了した。

鳥居跡町(とりいどちょう)

白木彫刻白木造屋台

日光山の遠鳥居の跡が地名となって鳥居跡(とりいど)になったという。
鳥居跡は鹿沼宿の入り口であり、近世初頭、鳥居跡から分岐した新道が現在の大道りである。
大正10年から市内久我の屋台を借りて今宮神社の付け祭に参加し、その後下徳次郎(現宇都宮市)の屋台を借りていたが、隣の蓬莱町の屋台建造に促されて、昭和30年に花屋台が新造された。
大工は寺町の半貫文太郎である。
昭和63年市制40周年の記念事業として彫刻屋台へと転換する事になり、富山県井波町の井波彫刻協同組合に製作を依頼し、鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)が、「鳳凰と牡丹」である彫刻が完成した。
そして第2事業として屋台全体を、「花鳥」を主体にした彫刻にて飾った。
雄大な鬼板と繊細な欄間・脇障子が見事なバランスを見せ、日光山の遠鳥居の跡が町名由来から、内欄間に日光山と鳥居が刻み込まれている。